『2019大河ドラマいだてん』日本人マラソンの父 金栗四三

2019年大河ドラマいだてん金栗四三が始まります。

生家は隣町の和水町(旧三加和町)で日本人初のオリンピック選手です。

日本マラソンの父と言われています。

     

金栗四三さんは、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たしました。また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」は四三さんの発案です。マラソン普及のため、下関~東京間・樺太~東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成しました。生涯に走った距離は25万キロ・地球6周と4分の1です。

・金栗四三の誕生

四三さんは、明治24年(1891)8月20日、玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)で造り酒屋を営んでいた父信彦・母シエの間に8人兄弟の7人目として誕生しました。

吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学。往復12キロの道のりを毎日走って通学しました。のちにこれを回想して、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」と語っています。

明治38年(1905)玉名中学校(現玉名高校)に進学し、学校敷地内の寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活。クラスで1、2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていました。

・マラソン競技との出会い

明治43年(1910)、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三さんは、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出されます。徐々に力をつけた四三さんは、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。

・ストックホルムオリンピック出場

明治45年(1912)、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。四三さんも日射病により、26.7キロ地点で棄権を余儀なくされます。

・消えたオリンピック走者

スタートで出遅れた四三さんは一度は最後尾になりますが、その後疲れてきた他選手を追い抜き、17、18位まで順位を上げていきました。しかし、折り返し地点を過ぎてまもなく、急激な疲労に襲われました。懸命にちからをふりしぼって走り続けようとしますが、体がいうことをききません。頭の中がボーッとしてかすみはじめ、とうとう26.7キロメートル地点でコースをはずれ、林の中に消えてしまいました。

地元の人(ペトレ家)に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰りました。そのため正式な棄権の届出が本部に届いていなかったようです。

このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになりました。